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南紀すさみの4月(11年),超巨大地震・東北地方太平洋沖地震・10 

巨大防潮堤と水門が普代(ふだい)村を救う

実は東北での地震と津波の影響で当地のことが気になって調べると、何と町の中心部殆ど海抜5m程度の中で、役場や総合センターなどは3.2m。

5m越える津波でも一大被害に会うと思われる。

5・6年前の台風で波止場大きく壊された事が在り漁港の漁協がやられ大きな金庫まで海中に持ち去られた。

それで再度防潮堤修理されたが、津波想定したわけでないからあいかわらず5mの津波対応という訳ではない。

どちらかと言えば台風への備えである。

と言って地震忘れたわけでもなく二言目には東南海地震が話題に成るがさりとて危機感持って語られると言うわけでもない。
その証拠に今回大津波警報発令されても僅かの人が避難しただけで殆ど反響が無かった。
勿論かく言う当方だって避難したわけでないからえらそうなことは言えない。

以前30センチの津波が来たとき、当方のんきに船が無いと渡れない湾口の波止で一人
竿たらしていたことがある。

警報のサイレンが鳴り何事かと思っていると大した盛り上がりも見えぬ中、波止沿いに急な流れが出来てゴーゴーと音がして驚かされた。

あとで聞くと30センチの津波だったそうだが、単なる波が海の表面寄せてくるのと訳が違い、底から動くと言う感じで流石津波と思ったものである。
其れとその後湾内の海全体が泥だらけに濁ったことである。

その時確かに津波の特殊性に気付かされたが、それでも尚大津波警報で避難とは考えない。

実は岩手で人口3000の村が15mの防潮堤と水門で大災害免れたと言う記事に出会った。
出来た当時その人並みはずれた用心深さにキチガイ扱いのようだったが、今回見事村人救ったことになり、頑として15m主張した当時の村長の墓前で手を合わせる村人増えたそうである。
下にその記事アップしておきたい。

当地東南海地震起これば、現状のままなら壊滅的被害がもたらされると見られ、その町が被害の手助けのみ頼って、他人の被害そのままなんてことは何ともしのびぬ、金だけで済む話でもなし、又そのカネだって高の知れた当方としては体で払おうとボランティアで被災地に行くことにしていた。

当初当地の名物料理イノブタ汁にうどんでも入れて振舞おうと企画してみた。
500か1000食、ボランティアグループ渚の会に相談持ちかけて下ごしらえしてもらう話までしたが、結局帰りの燃料の解決に至らず話し立ち消え。

それでやむなく県の社協の災害ボランティア派遣に潜り込んで行くことにした。
本日そのオリエンテーションがあって、明後日8日に出発と言うことである。
ここから出発地の和歌山まで2時間、底から岩手の大槌町まで18時間の長丁場と言うことである。

大した事もできなかろうが、一度経験しておけば、当町でボランティア募って改めていくことの可能で、そのときこそイノブタ汁振舞うことも出来るかも知れぬ。
何はともあれ行って現地の様子見である。

その中で当地の災害への対策提言も出来ることもあろう。


 津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。

 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。

 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。

 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。

 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。

 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。

 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。

 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。

 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

(2011年4月3日22時05分 読売新聞)





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[ 2011/04/06 16:06 ] 天災 | TB(0) | CM(0)

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